突然ですが、“KISS & CRY”の歌い出しはこちら。
不良も優等生も先生も
恋に落ちれば同じよね
不良と優等生というのは対立する存在と言えると思います。
更に、不良と優等生を生徒という枠でくくるとしますと、今度は先生という存在と対立することになります。
(不良←→優等生)←→先生
しかし、恋に落ちると、この←→が全部とっぱらわれて、こういった対立する存在たちも、「恋」というファクターを通すことで、同じ存在(恋する人)になるうるらしい。
不良=優等生=先生
また、二番の歌い出し
被害者意識って好きじゃない
上目遣いで誘って 共犯がいい
ここでも、被害者←→加害者という対立する概念を嫌い、同じ加害者(共犯者)になりたいという意志が読みとれます。
被害者←→加害者から、加害者=加害者(共犯)へ。
このように、この“KISS & CRY”では、ところどころに人間関係における「対立」であるとか「差異」をなくそうとする傾向が見られます。
お父さんのリストラと
お兄ちゃんのインターネット
お母さんはダイエット(ダイエット ダイエット …)
みんな夜空のパイロット
孤独を癒すムーンライト
今日は日清CUP NOODLE
この部分の歌詞がかなり好きなので、思わず全部抜き出してしまいましたが……。
お父さん-リストラ
お兄ちゃん-インターネット
お母さん-ダイエット
横に見ていくとイメージ的に違和感のある単語の並びではないですが、で、左側を縦に見てもまぁ不自然ではないですが、
右側の単語を縦に見ていくと、それぞれの単語に全く関連性がない。
特にリストラなんてね……超大変なできごとじゃないですか。それが、インターネットとかダイエットとか他愛もない単語と並べられていたりする。
しかし、聞いているとあんまり違和感なく聞き入れられて、むしろ、それら三つの単語が全く同じ次元の出来事のように聞こえてきたりします。
その原因の一つとして、まず、「リストラ」「インターネット」「ダイエット」という単語がお父さん、お兄ちゃん、お母さんという関連したワードによって結びつけられていることが上げられると思いますが、ここでそれ以上に重要な働きをしているのは「韻」ではないでしょうか。
一番最初にあげた、「不良」「優等生」「先生」がそれぞれ、
fury
ou yuut
ousei
yuutou
sei sen
seiというように、「韻」という(意味を持たない)単なる響きで結びつけられていたように、「お父さん」-「お兄ちゃん」-「お母さん」、「リストラ」-「インターネット」-「ダイエット」は韻によってキレイに結びつけられています。
“KISS & CRY”は音楽ですから、私たちはこれらの単語を耳で聞くわけです。
ただ文字列を目で追うときよりも、耳で聞いたときの方が、これらの単語のつながりはより自然に聞こえてきます。
つまり、「リストラ」「インターネット」「ダイエット」という意味的には全く関連のない単語が、「韻」という意味を持たない「響き」というもので括られている。それによって、その単語が意味的にも同じ次元で語られているように感じられてしまう。
そんな単語の意味の空転がここには見られる様に思います。
シニフィエがシニフィアンによって結びつけられているとでも言うんでしょーか(よく分かりませんが……)。
韻によって結びつけることで、単語の持つ意味を空転させる。
そうして、単語と単語の意味の差異を消してしまう。
こんな手を使って、ここでもこの曲は「差異」とか「対立」を消しているのです。
で、これに続く歌詞。
みんな夜空のパイロット
孤独を癒すムーンライト
今日は日清CUP NOODLE
まず、直前の歌詞で「お父さん」「お兄ちゃん」「お母さん」というそれぞれ独立した存在について歌った直後に「みんな」という、全ての存在をくくってしまう言葉を出してしまうところが憎いですね。
「みんな」←→「孤独」もある意味対立した概念と言えると思いますが、やはり、その後の「パイロット」「ムーンライト」の響きで(自然に)結びつけられている。
また、「孤独」が「癒」されてしまったら、孤独でなくなります。
「孤独」であるというのは、ある意味、独りになることで「周囲」と「わたし」の間に壁をつくり「みんなと違うわたし」を感じるための手段であると思いますが、それが癒されるということは「みんな」(他人)の中に飛び込んでいくことであると思います。
つまり、「みんなと違う私」の放棄=「私とみんなの差異」の放棄(ちょっと強引?)
極めつけが最後の「日清CUP NOODLE」
「孤独」から抜け出した「わたし」がたどり着いたのは、お湯を注いで3分待ったら誰でもどこでも同じ味が楽しめるインスタントラーメンでした。ここで、ますます、「わたし」と「みんな」の差異はなくなります。
(「わたし」と「みんな」の差異はなくなるのに、日清カップヌードルだけが、「日清カップヌードル」という他のカップラーメンとは違う「固有名」を保持しているのはなかなか面白い皮肉ではないですか)。
このようにして“KISS & CRY”は単語と単語の差異をなくし、「わたし」と「あなた」の差異をなくし、「わたし」と「みんな」の差異をなくし、どんどん差異を0に向けていく。
差異を0に向けるということは、「差異」の持つ価値を0にするということ。
差異が価値を持つのは、相対的な価値観においてです。
つまり、誰かと比べて得られる、「私のほうが優れているわ」「私の方が特別」と他人との優劣に基づいた価値観において、他との「差異」というものは大きな意味を持ちます。
それが0になった時に、残るのは絶対的な価値観。
他者との比較においてではなく、ただ「私」においてのみ決定される価値観ではないかと思います。
“KISS & CRY”という曲では、相対的な価値観の否定→絶対的な価値観の肯定
というような構造(?)が見られる曲ではないでしょうか。
そして、そのような構造(?)がたどり着くのは、やはり↓の日記でも書いた「“本当のわたし”探し拒否」ではないかと思います。
ドントウォーリーベイベー
考えすぎたり
守ってばかりいたって
さみしいじゃない
「考えすぎる」「守ってばかり」も「孤独」と同様、「みんなと違うわたし」を守るための手段と呼ぶことができると思います。
そんなの寂しいじゃない? とこの曲はそれを拒否し、
I just want to be happy
……
I just want you to hold me
と続きます。
どうも、わたしはここで、宇多田ヒカルの“幸せになろう”の、
「幸せになろう オフィシャルな野望」
という歌詞を思い出してしまうのですが、果たして「happy」になりたいというのは「オフィシャルな野望」なわけです。
そこにあるのは、誰にでも認められて当たり前の願望である。
だれとも違うわたしだけの願望(や夢)ではなく。
当たり前の願望。
これがけっこう重要であるように思います。
happyが誰にも認められている野望や希望だとして、
そのhappyが相対的な価値観に基づいている場合(あの人よりも幸せになりたい!)、その願望はみんなが平等にかなえられる願望ではなくなってしまう。
そうではなくて、ここでいうhappyはやはり、絶対的な価値観に基づく、自らの充足を基準とした幸せなのではないでしょうか。
宇多田ヒカルは、「他とは違う私」が求める「誰とも違う」(相対的な)願望ではなく、「ただ、幸せになりたい」という絶対的な価値観に基づく願望をどんどん押し出してくるのです。
これは、「他とは違う私」の殻に閉じこもった「本当の私」探しの罠にはまる現代批判とも取れるような気がします。
(ここで一つ付け加えると、ここには一つ矛盾っぽいものが発生していて、それは、絶対的な価値観、つまり、「他の人には左右されない価値観」というのは、「私だけの価値観」であり、それは「他の人とは違う価値観」と同意義ではないのかというものです。しかし、それは違って、絶対的な価値観という物は、例え他の人と同じであったとしても、「私の価値観だ」と自信を持って言い切れる価値観であると思います)
だいぶ長くなったので強引にまとめてみると、
ちょっと傷ついて
あきらめないで
笑い飛ばしてがんばれ
あとはしょうがない
もっと勇気だして
もっと本気見せて
うまくいかなくたって
まあいいんじゃない
「ほんとうの自分」「誰とも違う自分」を守るための殻なんて捨てて、かっこつけずに、「もっと本気出せよ!」と。
「だれとも違うこと」そんなの些細なことだからさ。
KISS & CRYとは、そのような曲とも受けとれる。
と私は受け取ってます。
長かった……。