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ちくしょー  

2007年 12月 10日

隣の芝は青く見えるとはよく言ったもんだ。

周りの人間の未来が全てバラ色に見えるぜ、ど畜生。


私に文才あれ。



何かネー、もう、暗い気分になりますよ全く。
ちょっと逆風食らっただけで“しゅん”ですよ。青菜もびっくりですよ。
未来が真っ暗な気がしてきますよ。
何もかもうまく行かないような気がしてくる。






ホームレスのおじさんを見る度に、

 働かないと働かないと

脅迫概念に襲われます。
頑張って逃げますが、逃げ切れないので、そんな脅迫なかったことにして日々を過ごしています。


だめじゃん。


何で働かないと生きていけないんだろ、あー。自己表現ってなんだよ、ばか。
社会貢献ってなんだよ。
そうやって人々の承認を受けないと生きていけないのさ。
他でもない私が。




よく考えたらこの一週間、何もしていない。
だめじゃん。
卒論しろ、卒論。

そつろんそつろん。


うるせーーーーーーーー。



よく考えたらこの一ヶ月、何もしていない。
だめじゃん。
勉強しろ勉強。


うるせーーーーーーーーーーーーーーー。


よく考えたらこの一年間、何もしていない。
だめじゃん。
考えろ考えろ。


モラトリアムって心地いい言葉ですね便利ですね。

でも、それだけですね。




やれやれ。いっそ子どもとか大人とかなくなってしまえばいいよ。
階級制度復活して、私のレールを引いておいてくれたらいいよ。


そんなこと言ったら叱られる。





何か支離滅裂ですが。



まぁいいや。
そつろんは明日から がんばる 

『秒速5センチメートル』にもの申す。  

2007年 11月 23日

記事整理してたらこんなん出てきました。
感想と言うより、メモですね。

『秒速5センチメートル』というアニメ映画について。


■イメージを起こしただけ

 リアリティがない。リアリティとは? よく分からないが、それは、「その監督でなければならないもの」と言えると思う。
 この映画は「多くの人の望むイメージ」を目に見える絵として、ストーリーとして、台詞として、起こした映画ということができるだろう。少年の美しく淡い思い出。そう言い表すことができるだろうか。みんなが望む淡い、恋とも言えぬ“恋”。そのようなものが、ストレートに、ピュアに、この映画では表現されている。
 逆に言えば、この映画に捻りがないし、個性がない。きっとこの映画はこの監督じゃなくてもきっと作れる。(※ストーリーと台詞関しては。絵については個性的ではあると思います)
 しかし、「みんなの望み」を起こすからには、そこに監督の個性というものが入ってきた瞬間に、それは「みんな」の望みではなくなってしまうだろう。だから、監督の戦略(?)はある意味では非常に正しく、試みは成功しているといえるのではないだろうか。

 みんなのイメージを起こしたのだから、
 当然、多くの人の共感は得られるだろう。


 しかし、共感だけでは駄目なのだ。


 共感は「分かってる人」「分かってない人」を二つに分ける。
 この映画が好きな人。嫌いな人。
 好き嫌い。
 それはぶつかり合わない。

 好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。
 それは変えようのない感性であり、「私は好きだけど、あなたはこの映画がきらい」「あなたはこの映画が分からない人なんだ」。その台詞は、双方が相容れる可能性を極めて低くする。好き/嫌いは相容れることが難しい。好き/きらい。それはある意味暴力てきな言葉だ。
 
 好き、嫌い。はぶつかり合わない。
 ぶつかり合うのはいい、悪い。その判断だ。


■この映画には言葉が多すぎる。
 モノローグが多いんだよ。
 言葉のお陰で共感はより得られるが、しかし、映画なのだから、言葉を少なく、映像で語るべきだと思う。
 言葉は、観客の「解釈」の幅を狭め、映画の持ちうる可能性をどんどんすり減らしてゆくだろう。



***


 言葉ではないもので語られるもの。
 そこから「好き、嫌い」を超えたものが生まれうる。きっと。
 それは言葉で語られ、他者と共有されることになるだろう。


 好き、嫌いで留まってはいけない。
 いいものをいい、
 悪いものを悪いというために、
 それのどこがよくてどこが悪いのか、
 きちんと説明できるようになりたい。

 宇多田ヒカルも好きだけではなく、いいと思うから、
 ただ好きだから好きではなく、
 ここがいい。
 と言えるようになりたい。
 村上春樹も
 嵐も
 平井堅も
 ぜんぶ。

一新。  

2007年 11月 23日

一新しまーす。(ブログを

地雷バトンでもないが  

2007年 11月 20日




結婚します!!  




嘘です。




便りがないのは
元気な証拠とおもってください





いーーーーやーーーーーー。


すまんすまんすまんすまん。

This Is Love  

2007年 10月 02日

書きはじめたはいいものの、結論が出ずに書き終わらないでいるこの文章。
もういいや、アップしてしまおう。


さて、“This Is Love”といえばカップヌードルのCM曲に使われていた曲ですね。
宇多田ヒカルの4thアルバム(日本で数えると)“ULTRA BLUE”の一曲目。
アルバムのCM曲としても使われていた、このアルバムの「顔」です。



さて、この曲ですが、非常に反意語……というか、対立する語句や表現が多く用いられていると思います。
ピックアップしてみた。


 冷たい言葉←→暖かいキス
       夜←→朝
     不安←→安らぎ
   冷たい←→暖かいベッド
 閉ざされてた(扉)←→開ける(呪文)
   悪い予感←→わくわく
  痛めつける←→甘える
 冷たい言葉←→暖かいキス


見にくーい……。
えー、これが歌詞の前後に見られる対立する表現です。


まず、一つ目の


冷たい言葉←→暖かいキス


この部分、“冷たい”“暖かい”を省いて考えると、


言葉←→キス


となります。(当たり前
“言葉”と“キス”は共に「口」に関する単語です。

また、二つ目の“冷たい枕”と“暖かいベッド”に関しても同じように考えてみると、
“枕”と“ベッド”にも「寝る」という共通点があります。



これらの単語、

“言葉”“枕”→頭(思考)
“キス”“ベッド”→身体(肉体)

という分け方……というか対立のさせ方ができるのではないでしょうか。
頭というのはそのまま“思考”と言い換えてもいいと思いますが。
知性を司る“言葉”と、頭を置く場所である“枕”は頭で、
直接相手に触れる“キス”と身体を横たえる場所である“ベッド”は身体(肉体)。
まぁ、そのまんまですけれども。

なので、強引にいいますと、
“冷たい言葉(枕)と暖かいキスあげるよ(ベッドになるよ)”はそのまま、“冷たい思考と暖かい肉体あげるよ(になるよ)”って言い換えられるのではないかと思います。


で、これを参考に、これまた強引ですけれども、一番最初の図(図?)の左を人間の「思考」側の言葉、右を人間の「肉体」側の言葉と考えてもいいのではないでしょーか。


そうやって歌詞を見ると、左側の思考側の言葉の方が幾分ネガティブな、捉えられ方をしているように思われます。
「冷たい」の時点でそうですけれども、「不安」「悪い」とか。

でも、ここでポイント(?)となるのは、
だからといって、決して左の「思考」側が否定されていないことです。
“冷たい言葉暖かいキス”のように、“夜と朝”“不安と安らぎ”“冷たい枕と暖かいベッド”など、大方の単語が“と”(=「+」)で結ばれてます。

暖かい肉体でぎゅっと抱きしめるだけでも、朝の明るさだけを持っているのでも、駄目なんですね。

冷たい言葉も、夜の暗さも同時に持ち合わせていなければ「愛」ではない。

そういうものこそが、“This Is Love”なわけです。




つづく。

KISS & CRY 2  差異を0に向ける音楽  

2007年 09月 27日

突然ですが、“KISS & CRY”の歌い出しはこちら。



  不良も優等生も先生も
  恋に落ちれば同じよね


不良と優等生というのは対立する存在と言えると思います。
更に、不良と優等生を生徒という枠でくくるとしますと、今度は先生という存在と対立することになります。


  (不良←→優等生)←→先生


しかし、恋に落ちると、この←→が全部とっぱらわれて、こういった対立する存在たちも、「恋」というファクターを通すことで、同じ存在(恋する人)になるうるらしい。


  不良=優等生=先生



また、二番の歌い出し



  被害者意識って好きじゃない
  上目遣いで誘って 共犯がいい



ここでも、被害者←→加害者という対立する概念を嫌い、同じ加害者(共犯者)になりたいという意志が読みとれます。
被害者←→加害者から、加害者=加害者(共犯)へ。


このように、この“KISS & CRY”では、ところどころに人間関係における「対立」であるとか「差異」をなくそうとする傾向が見られます。




  お父さんのリストラと
  お兄ちゃんのインターネット
  お母さんはダイエット(ダイエット ダイエット …)
  みんな夜空のパイロット
  孤独を癒すムーンライト
  今日は日清CUP NOODLE


この部分の歌詞がかなり好きなので、思わず全部抜き出してしまいましたが……。


 お父さん-リストラ
 お兄ちゃん-インターネット
 お母さん-ダイエット

横に見ていくとイメージ的に違和感のある単語の並びではないですが、で、左側を縦に見てもまぁ不自然ではないですが、
右側の単語を縦に見ていくと、それぞれの単語に全く関連性がない。
特にリストラなんてね……超大変なできごとじゃないですか。それが、インターネットとかダイエットとか他愛もない単語と並べられていたりする。
しかし、聞いているとあんまり違和感なく聞き入れられて、むしろ、それら三つの単語が全く同じ次元の出来事のように聞こえてきたりします。

その原因の一つとして、まず、「リストラ」「インターネット」「ダイエット」という単語がお父さん、お兄ちゃん、お母さんという関連したワードによって結びつけられていることが上げられると思いますが、ここでそれ以上に重要な働きをしているのは「韻」ではないでしょうか。

一番最初にあげた、「不良」「優等生」「先生」がそれぞれ、

furyou yuutousei

yuutousei sensei

というように、「韻」という(意味を持たない)単なる響きで結びつけられていたように、「お父さん」-「お兄ちゃん」-「お母さん」、「リストラ」-「インターネット」-「ダイエット」は韻によってキレイに結びつけられています。
“KISS & CRY”は音楽ですから、私たちはこれらの単語を耳で聞くわけです。
ただ文字列を目で追うときよりも、耳で聞いたときの方が、これらの単語のつながりはより自然に聞こえてきます。

つまり、「リストラ」「インターネット」「ダイエット」という意味的には全く関連のない単語が、「韻」という意味を持たない「響き」というもので括られている。それによって、その単語が意味的にも同じ次元で語られているように感じられてしまう。
そんな単語の意味の空転がここには見られる様に思います。
シニフィエがシニフィアンによって結びつけられているとでも言うんでしょーか(よく分かりませんが……)。


韻によって結びつけることで、単語の持つ意味を空転させる。
そうして、単語と単語の意味の差異を消してしまう。
こんな手を使って、ここでもこの曲は「差異」とか「対立」を消しているのです。


で、これに続く歌詞。


  
  みんな夜空のパイロット
  孤独を癒すムーンライト
  今日は日清CUP NOODLE


まず、直前の歌詞で「お父さん」「お兄ちゃん」「お母さん」というそれぞれ独立した存在について歌った直後に「みんな」という、全ての存在をくくってしまう言葉を出してしまうところが憎いですね。

「みんな」←→「孤独」もある意味対立した概念と言えると思いますが、やはり、その後の「パイロット」「ムーンライト」の響きで(自然に)結びつけられている。

また、「孤独」が「癒」されてしまったら、孤独でなくなります。
「孤独」であるというのは、ある意味、独りになることで「周囲」と「わたし」の間に壁をつくり「みんなと違うわたし」を感じるための手段であると思いますが、それが癒されるということは「みんな」(他人)の中に飛び込んでいくことであると思います。
つまり、「みんなと違う私」の放棄=「私とみんなの差異」の放棄(ちょっと強引?)

極めつけが最後の「日清CUP NOODLE」

「孤独」から抜け出した「わたし」がたどり着いたのは、お湯を注いで3分待ったら誰でもどこでも同じ味が楽しめるインスタントラーメンでした。ここで、ますます、「わたし」と「みんな」の差異はなくなります。
(「わたし」と「みんな」の差異はなくなるのに、日清カップヌードルだけが、「日清カップヌードル」という他のカップラーメンとは違う「固有名」を保持しているのはなかなか面白い皮肉ではないですか)。


このようにして“KISS & CRY”は単語と単語の差異をなくし、「わたし」と「あなた」の差異をなくし、「わたし」と「みんな」の差異をなくし、どんどん差異を0に向けていく。

差異を0に向けるということは、「差異」の持つ価値を0にするということ。

差異が価値を持つのは、相対的な価値観においてです。
つまり、誰かと比べて得られる、「私のほうが優れているわ」「私の方が特別」と他人との優劣に基づいた価値観において、他との「差異」というものは大きな意味を持ちます。

それが0になった時に、残るのは絶対的な価値観。
他者との比較においてではなく、ただ「私」においてのみ決定される価値観ではないかと思います。

“KISS & CRY”という曲では、相対的な価値観の否定→絶対的な価値観の肯定
というような構造(?)が見られる曲ではないでしょうか。



そして、そのような構造(?)がたどり着くのは、やはり↓の日記でも書いた「“本当のわたし”探し拒否」ではないかと思います。


  ドントウォーリーベイベー
  考えすぎたり
  守ってばかりいたって
  さみしいじゃない


「考えすぎる」「守ってばかり」も「孤独」と同様、「みんなと違うわたし」を守るための手段と呼ぶことができると思います。
そんなの寂しいじゃない? とこの曲はそれを拒否し、



  I just want to be happy
 
  ……

  I just want you to hold me



と続きます。
どうも、わたしはここで、宇多田ヒカルの“幸せになろう”の、
「幸せになろう オフィシャルな野望」
という歌詞を思い出してしまうのですが、果たして「happy」になりたいというのは「オフィシャルな野望」なわけです。
そこにあるのは、誰にでも認められて当たり前の願望である。
だれとも違うわたしだけの願望(や夢)ではなく。
当たり前の願望。
これがけっこう重要であるように思います。

happyが誰にも認められている野望や希望だとして、
そのhappyが相対的な価値観に基づいている場合(あの人よりも幸せになりたい!)、その願望はみんなが平等にかなえられる願望ではなくなってしまう。
そうではなくて、ここでいうhappyはやはり、絶対的な価値観に基づく、自らの充足を基準とした幸せなのではないでしょうか。

宇多田ヒカルは、「他とは違う私」が求める「誰とも違う」(相対的な)願望ではなく、「ただ、幸せになりたい」という絶対的な価値観に基づく願望をどんどん押し出してくるのです。


これは、「他とは違う私」の殻に閉じこもった「本当の私」探しの罠にはまる現代批判とも取れるような気がします。

(ここで一つ付け加えると、ここには一つ矛盾っぽいものが発生していて、それは、絶対的な価値観、つまり、「他の人には左右されない価値観」というのは、「私だけの価値観」であり、それは「他の人とは違う価値観」と同意義ではないのかというものです。しかし、それは違って、絶対的な価値観という物は、例え他の人と同じであったとしても、「私の価値観だ」と自信を持って言い切れる価値観であると思います)


だいぶ長くなったので強引にまとめてみると、


  ちょっと傷ついて
  あきらめないで
  笑い飛ばしてがんばれ
  あとはしょうがない


  もっと勇気だして
  もっと本気見せて
  うまくいかなくたって
  まあいいんじゃない




「ほんとうの自分」「誰とも違う自分」を守るための殻なんて捨てて、かっこつけずに、「もっと本気出せよ!」と。
「だれとも違うこと」そんなの些細なことだからさ。
KISS & CRYとは、そのような曲とも受けとれる。
と私は受け取ってます。


長かった……。

KISS & CRY  

2007年 09月 12日

  お父さんのリストラと
  お兄ちゃんのインターネット
  お母さんはダイエット(ダイエット ダイエット …)
  みんな夜空のパイロット
  孤独を癒すムーンライト
  今日は日清CUP NOODLE

“Beautiful World”に入っているもう一曲。“KISS & CRY”
“Beautiful World”とは違って、宇多田ワールド全開の曲ですね。
(……“KISS & CRY”もカップヌードルのテーマ曲なのに、なんでだろう。←それはわたしの独断と偏見と直観で宇多田の曲を判断してるから)


初めは歌詞カード見ないで聞いてて、今になって歌詞をちゃんと確認してみたら、案の定間違って歌詞を聞き取ってました。
サビの最後の「KISS & CRY♪」のところを、一番は「消せないくらい♪」二番は「消せない、愛♪」だと思ってた……orz 
「ちょっと傷付いて」も「ちゃんと傷付いて」だと思ってた。




で、まぁ、そんなことはどうでもいいんですが、
ちゃんと歌詞を確認してまず最初に思ったこと。




バカじゃねーの!? 


どこがって、一番最初にも書いた歌詞の部分ですよ。
たぶん、誰しもがひっかかるところだとは思いますが。
「今日は日清カップヌードル」て。
ふつう、カップヌードルのCM曲に、そのまま「日清カップヌードル」って歌詞入れるか!? 

そりゃあ、歌番組で「Beautiful World」しか歌わないわ……。


確かにカップヌードルの曲だけど。
聞いてて、全然違和感ないけど。
そして、全国の宇多田ファンは(わたしも含め)そんな歌詞を書いても全然ふしぎじゃない宇多田ヒカルが大好きなんだと思うけど(笑)。

そのまま「カップヌードル」って入れちゃうっていう発想がすごいわ。


で、この「カップヌードル」と言う歌詞。↓の“Beautiful World”の記事の時に書いた「ハズし」の歌詞の一種ですよね。
世界観をひっくり返す単語というか。
「カップヌードル」に関しては全然違和感なく歌詞に混入されてるけど、Passionの「年賀状」にしろ、Keep Tryin'の「国家公務員」にしろ、この曲の「カップヌードル」(あるいは「リストラ」)にしろ、「歌」という仮想の世界の中に、聞き手側の世界に存在するリアルな単語をポンと入れてしまうのが、宇多田マジックというか、彼女の曲の他の歌い手にはない特色だと思う。
そして、そのことによって、一気にそれまでに構築されてきた仮想の歌詞世界がバランスを崩して一気に崩れてしまう。そこが素晴らしいと思います。


私、この曲大好きなんですが、歌詞でいうと、“HOTEL LOBBY”を使ってるところ……(
まぁ、日清カップヌードル♪のところ)が特に好きですね。
「ULTRA BLUE」の時にはちょっとなりを潜めていた、韻踏みまくり故にちょっと意味不明な歌詞。そういう点では、「DEEP RIVER」の頃にちょっと通じるものがあると思います。まぁ、あくまでそう言う点においては、ですが……。

「もっと近づいて~」と語りかける歌詞と「わたしの弱虫」と完全に自分の内側に向いている歌詞が混在しているあたりは、最近の宇多田ヒカルの流れをそのまま踏襲している感じはします。



「不良も優等生も先生も 恋に落ちれば同じよね」
→「被害者意識って好きじゃない 上目遣いで誘って 共犯がいい」


の流れとか、


「守ってばかりいたって 寂しいじゃない」とか
「ちょっと傷付いて あきらめないで 笑い飛ばしてがんばれ あとはしょうがない」

とか。


最近の宇多田の曲に見られる、


「え、そんな小さな傷がどうしたっていうの?」

という、「only one」や「本当の自分探し」の「罠」に陥って、少しの傷を舐め続ける現代人批判的なものがチラチラ垣間見える気がしますが、
しかし、宇多田ヒカルを語るときにあんまりそこの部分を押しすぎるといけない気がするんだよなぁ。そこを深刻に考えすぎてしまうと、「考えすぎたり 守ってばかりいたって 寂しいじゃない」って言われてしまう気がする。

考えないわけではないんだけど、考えてたら感情がワーっと前に出てきて、そのまま動き出しちゃうのが宇多田ヒカルの曲の世界だと思うから。

……あ、でも、ってことはやっぱり考え抜かないといけないってことで……うーん、難しい。

Beautiful World  

2007年 09月 11日

宇多田の新曲が発売されてますね。“Flavor of life”のようにポンとは売れてないようですが……。


“Beautiful World”はエヴァンゲリオンのテーマ曲で、私の知り合いはテーマソングが宇多田ってのがイヤで劇場に行くのがためらわれるとか言ってましたね……。
『春の雪』の時もミシマー(※三島由紀夫愛読家のこと)にそんなこと言われてた気がします。


で、まぁ、それはそれで置いといて。
この曲は、かなり、“エヴァ”を意識した曲な気がします。
私はエヴァンゲリオンを見たことないし、テーマソングだから当たり前っちゃあ当たり前だけど……。
まぁ、かなりエヴァエヴァしている感じはします。


そして、そのせいで、この曲はかなり「おかしなこと」になっている気がします。
別に「おかしな」っていうのは否定的な意味で言っているんじゃなくて、何のテーマ曲でもない“宇多田ヒカル”の曲とは世界観が違うところに置いてあるというか。
何か、エヴァと宇多田ヒカルの世界観がごっちゃになってる感じで、「あれ、今までと何か違うぞ」っていう印象を受けるってことです。

これまで、宇多田ヒカルがテーマソングをつくるたびにそういう「おかしさ」があったけれど、今回の“Beautiful World”はその中でも特におかしなことになっている曲だと思います。


“Be My Last”は『春の雪』のテーマソングで、確かにアルバムの中でも世界観がちょっと異質だった気はするけど、あくまでそれは「ちょっと」で、そんなに春の雪春の雪してなかったし、宇多田の世界と“宇多田的”春の雪の世界がうまい具合にドッキングしてた気がする。
“Flavor of Life”の方はかなり『花より男子』色が強くて、最近のちょっとぶっ飛んでる方の宇多田っぽさはちょっと薄れていた気がする(だから売れたんだと思う)。
逆に、“光”とか“Passion”は思い切り宇多田っぽさ全快だったと思う(私がキングダムハーツを全く知らないからかな)。ゲームと宇多田の世界観がもの凄く重なってたからではないかという気がする。


それらの曲に比べて、“Beautiful World”はエヴァ色が強すぎつつも、同時に宇多田っぽさも押し出されてて、お互い自己主張が強すぎてぶつかって、うまく共存できいないというか。「Be My Last」の時のように宇多田と春の雪の世界が一本の線上にある感じではなくて、宇多田の線とエヴァの線が交差しては別れ、別れては交差し。みたいな、何か不安定な感じに仕上がっている気がする。


メインのサビの部分は完全にエヴァってると思うんです。「もしも願いひとつだけかなうなら君の側で眠らせて~自分の美しさまだ知らないの」
すごく秀逸だし“きれいな”歌詞だとは思うんですが、宇多田ヒカルにしてはどうにも世界観が平坦というか、のっぺりしてるというか。
それに比べて、サビじゃない部分(と二番のサビ)はかなりウタダウタダしてる気がします。
単語で言うと「少年マンガ」が代表的ですかね。歌という仮想世界に、現実の超リアルな単語を取り入れて来る感じが。
「根性無し」「気分のムラ」とかいう言葉もその範疇に入ると思います。


こういう、歌詞の「ハズし」ってとても宇多田ヒカルらしいところで、(「ハズす」という表現がそぐわしいかどうかは分かりませんが)そういう「歌詞の世界観を台無しにするような単語/歌詞」とかを挿入してくるところが、宇多田ヒカルの曲の宇多田らしさの一つだと思います。
他の曲では、例えば、端的な単語では、“Passion”の「年賀状は写真付きかな」とか。(それまでの歌の世界観に「写真付き年賀状」はそぐわねーよ! みたいな)
単語ではない部分で行くと、“Keep Tryin'”で、最後で急に、まぁ、一言でいうとセンチメンタル(?)な感じを押し出してきたりするところとか。(それまではそれは裏に隠れて(隠して?)、隠し味的なニュアンスでしかなかっちじゃねーか! みたいな)


閑話休題。


で、まぁ、サビのエヴァエヴァしてる感じが、他の部分で薄められている感じでしょうか。(2番のサビもエヴァエヴァというよりはウタダウタダしてますが)。

問題なのは(別にそれがいけないというわけではないですが)、その「薄められている」っていうところで、この曲ではエヴァエヴァしている部分とウタダウタダしている部分が共存というより、対立して打ち消し合ってる感じがするところで……。
そこが、「特におかしなこと」になっている原因かと。
まぁ、「おかしなこと」とか「薄められている」とか完全に私の主観ですが。
なんでそんな印象を受けるのか、まだよく分からないんですが。

私の勘では、宇多田ヒカルがあんまりエヴァンゲリオンを好きすぎるというかコミットしすぎているんじゃないかという気がする(実際はどうか知りませんが)。
だから、この曲では宇多田ワールドがエヴァに呑み込まれそうになってて、宇多田ワールドがそれに危機を感じたために、「エヴァワールドに対立する宇多田ワールド」という図式がこの曲の中で成り立っているのではなかろうか。
宇多田的エヴァ世界に、宇多田世界自体が呑み込まれるか、呑み込まれないか、そういうギリギリなところで作られているから、この曲は超不安定……なの、かな。


まるで村上春樹(の評論家)みたいなこと言ってますが……。
完全に私の勘だけで文章打ってるので、根拠も説得力も皆無ですけどね。
(超無責任な文章……)。
まぁ、私はそう思います。

で、その超不安定なところがこの曲の魅力だと思います。



さて。
私が特に好きなのは、やっぱりウタダウタダしてる感じのところで、
1、2番のそれぞれサビに入る前の「それでいいけど」「別にいいけど」の部分です。

1番が、

 言いたいこと言えない
 根性無しかも知れない それでいいけど

2番が、

 最近調子どうだい
 元気にしてるなら 別にいいけど

 

「それでいいんだよ」「君は君のままでいいんだよ」というような、現状を肯定することで相手の存在を認めて“あげる”ような曲とは違って、「別にいい“けど”」とムリに納得して突き放している感じが好きです。
居直ってるというか。

この曲の主人公(なんているのか?)は、きっと、私は私のままでいいのかしら? なんていう疑問で立ち止まっていられないんだと思うんです。そんなことよりも、もっと大きな問題、(“君の側で眠らせて”)があって、それがあくまで第一目標というか、そこに全速力で突っ込んでいかなきゃいけない。自分が根性無しだとして、そんな「自分が根性無しである。それをどうにかしなければならない」みたいな“些細な”問題で時間をロスしてる暇なんてないんじゃないでしょうか。
だから、「根性無しかもしれない」→けど、「それでいいけどね」と一言で片づけて次の段階へ進んでしまう。

「元気にしてるなら 別にいいけど」も同じで、本当に元気かどうか確かめるより、「君の側で眠る」ことの方が大きいから、「別にいいけど」で終わらせてしまう。


結構、最近のJ-POPとかだとその「それでいいけど」「別にいいけど」で終わらせている部分をそ掘り下げてる曲が多いと思うんですよね。
端的に言うと「自分を捜している」「自分を肯定するための」歌詞が多いとでもいいましょうか。


それに対して、宇多田は「そんな“本当の自分”とか些細なことはどうでもいいのよー」って言いながら、全速力で駆け抜けていく。そんな感じがすごく好きです。

traveling  

2007年 08月 22日

最近、宇多田ヒカルについて考えることが多く。
私は阿部和重と宇多田ヒカルが好きだけど、で、どっちかっていうと阿部和重の好き度の方が今のところ上だけど、
私が阿部和重を嫌いになることがあっても、宇多田ヒカルを嫌いになることはなかなかないんじゃないかと思う。

これから、宇多田ヒカルについて記事を何個か書いてみようかなーと思ってて(今までも書いてきてるけど、それとはちょっと一線を画して、)それじゃあ、「序」として、記事の中で何についての文章が一個目に来るかなぁと思って、そうなると、やっぱり、この曲が一番に来るのかなぁと。


というわけで、“traveling”について書きます。



私は宇多田ヒカルが好きですが、一番好きな曲は何かと言うと“traveling”です。歌としての完成度とか、この曲を聞くと何かやる気出るとか、曲のイメージとか、そういうのを取っ払って考えたときに、純粋に曲として一番好きなのはこれです。
“traveling”の曲に出てくるような女の子になりたいなぁといつも思ってます。

タクシーで「どちらまで行かれます?」って聞かれて、「ちょっとそこまで」って答えるような感覚。
ちょっとそこ、ってどこだよ(笑)。みたいな。

  ここはイヤよ 目的地はまだだよ

って言った直後に、

  ここでいいよ 全ては気分次第

って言えてしまう感じ。
おいおい、お前言うことバラバラじゃねーか、みたいな。


いいなぁと。


その場の一途な気持ちや気分や勢いに従って何だってできる若さとか。論理を並べ立てる男の子なんかより断然現実的な感じとか。転んだって全然痛くないもーん、ってすぐ立ち上がれそうなエネルギーとか。儚さに気付きながらも、沈み込まずにどんどん先へ進んでしまう感じとか。


そういう、溢れんばかりのエネルギーでもって全力疾走して、疲れたらバターンって倒れこんで、回復したら懲りずにまた走り出したりするような女の子。


いいなぁ。



私は、この「traveling」という曲が宇多田ヒカルの一つの分岐点だと思っていて、というのも、この曲あたりからストーリーよりも歌の世界観が先行するようになっきていて(だからストーリーが読みにくくなってきている)、この曲から、“ULTRA BLUE”へ至る、曲の中で世界を構築する宇多田ヒカルのスタイルが始まっているのだと思います。

ばーか  

2007年 08月 20日

勉強もせずに日々宇多田ヒカルのことばかり考えている。

答えは「ばかめ」だ! 


何を考えよう、何を考えよう。
敢えて何かを考えようとするとけっこう行き詰まりがちになるものだ。
思考なんて突然ふらっと現れてくるものだ。
しかし、それではダメなのだ。


バイト代が予想してた額の二倍入っていて、何かの間違いじゃ? とか思いつつ、そういえばカード切らず紙に書いてることが多かったっけ……。
もらっとこ。



空っぽ。




夏休みの過ごし方。





弟は勉強をしている。
さすが受験生。

お ま え も な 

って感じだけど。





よく、ペアリングをしているカップルを見かける。
もの凄く引く自分がいる。
お前ら、なにやってんのかと。
主張する意味はあるの? 
って思う。
別にそれはそれぞれの自由なのだけど。



恋愛の話をするときに、意図的に自分が意図していないように見せかけた暴露話を相手に導かせる行為は、見ていて不快だ。
しかし、私の後輩は言いました。
「それって、礼儀やと思ってました」
それはとてつもなく正しい。
それくらい大目に見てやんなよ。
素直に聞き出してやれよ。私。



超個人的な人間関係なのだから、
そういう制約という効力を持っていて、
素直に流されてやれよと思う。


恋愛とは制約と誓約。
自分にとっても相手にとっても第三者にとっても? 
ハンターハンターかよ。




私は自分が相手や集団に望まれているポジションに着きがちなタイプだと思っているのだけど、
それはもちろん気のせいかもしれない。
だって簡単な意地や下らないこだわりも捨てられない。
それさえ捨てれば、君はけっこう変幻自在なのにね。


簡単に変化できること。
それは価値か無価値か? 



そんな簡単に二つに分けられるもんかよ。



 変えられないものを受け入れる力
 そして受け入れられないものを変える力を
 ちょうだいよ



まったくだ



? 



自分の価値を自分で見極めるのはとても難しい。
絶対的な価値観なんてない。
でも、そういうものも時には必要だ。
難しい。
他者に依存せずに自分を評価してみたらどうだ? 




そんなの私にはできなーい。




って駄々をこねている私。





救われないね。




それに、幸せになれない。




救えねー。


だって自分が救われようとしてないもんね。



小学生が駄々こねてるのと一緒。



大人になれ。
中途半端に大人になるくらいなら。
少年にとどまれないくらいなら。


大人になっちまえ! 



っていうか、いい加減、なれよっていう……





ばっかでー。
bakkaday



何書きたいんだか。
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